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日頂の泣き銀杏

日蓮聖人がご遷化(亡くなられて)された2年後の弘安7年の10月13日の第3回忌の法要の折です。現在の東京都・池上 に、鎌倉の日朗さま、身延の日向さま、富士の日興さま、下総(千葉中山)の富木日常さま、そして上足の日昭さま等、全国よりお弟子さんたちは檀越(檀家や 信者)を連れて一同に会しました。しかし、日頂上人という方は一向に姿をあらわしません。このお上人は日蓮上人が特別に指導者として指名された6老僧のお 一人です。日頂さまの父でもある、中山(千葉県法華経寺)の日常上人は、日頂さまのご到着をいまかいまかとご心配でしたがとうとう定刻2時となり、法要が 始まってしまいました。

日頂さまは、鎌倉から法要に向かう途中、他宗と法論になっていたのです。法論は10日に始まり13日明け方ま で続きました。夜を徹しての法論、終に他宗の僧侶たちを説き伏せ、喜び勇んで池上にはせ参じました。しかし、時既に遅し、父日常の姿はなく、怒り心頭で池 上の地を離れ中山に戻ってしまったことを聞かされました。

すぐに父日常の姿を追い中山に向かいました。そして遅参の理由を述べて許しを乞うたのです。しかし他宗の僧侶たちを論破したことを喜んでくれるあろうはず の父日常はおっしゃいました。「他宗の法論はいつでもできるが、三回忌は二度とないことである。大聖人報恩の御会式に姿をみせないということはお師匠さま (日蓮大菩薩)にたいしての最大の不義理ではないのか」とさらに叱りつけたのです。

日頂さまは深く反省をいたしました。そして「此経難持 若暫持者 ・・南無妙法蓮華経」とその銀杏の木の周りをぐるぐる回り泣きながら唱えて許しを乞いた そうです。懺悔のお題目を唱えること7日、7夜を超えそれでも許し叶わず、終に突然と日頂さまは姿を消したそうです。(この銀杏の木のことを「日頂の泣き 銀杏」と呼びます。)

17年の歳月が流れて、日頂さまは日常さまが危篤になられた知らせを受けました。直ちに中山に参上し再び許 しを乞うたのですが日常さまからの許しはいただけません。この親子のことを不憫に思われたのでしょう6老僧の日朗さまは深く反省する日頂さまのお口添えを してくださいました。しかし「後の世の弟子や檀那への誡(いまし)め也」と日常さまは父の苦しい胸の内を日朗さまに打ち明け、結局お姿すらもお見せになり ませんでした。父の肌着を抱きしめ涙する日頂さま、外で父の臨終を妹より伝えられたそうです。生涯許しをいただけなかった日頂さまは、その後、富士のお山 に隠棲し一切世に出ることはありませんでした。
 
このお話はお会式の大切さを伝えるお教えであるだけでなく、みなさんが年回忌やご命日の折にご先祖さまへのご報恩の法事をお努めになるときの誡めとも受け 留めていただきたいと存じます。お会式は日蓮聖人へのご報恩、ご法事はご先祖さまへのご報恩です。日頃の忙しさを忘れて静かにつとめることが出来たら幸い ではないでしょうか。うっかりなど無きように願います。