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日蓮聖人一代記13

〈身延山〉

2年5ケ月の佐渡の生活。島の人たちに別れを告げられた聖人は、鎌倉へ戻られました。
聖人は、三度の諌めも聞かない幕府をみかぎり、日本中を歩いて法華経を広めようと考えられ、ついに身延山へ向かって旅立たれたのです。

身延に着いた聖人を迎えた波木井実長(はきいさねなが)さんは、「生涯をこの地で過ごしてください」と草庵を建築しました。
法難に次ぐ法難の日々で、弟子の教育ができなかった時間を、ここで思う存分果たすことができたのです。

身延に入られて1年目の冬のある日、日朗上人が七歳の満寿丸を千葉県松戸の平賀から連れてきました。
五十四歳の聖人は、孫ができたように喜ばれ「経一丸」(きょういちまろ)の名を贈って、一字一字お経を教え、手紙やご本尊を書くときも、いつもそばに座らせ、家族の団らんがなかった聖人にとっては、ほんとうに心なごむひとときでした。
しかしそれは、両親への不孝を思い出させるものでもあり、毎日毎日、身延山頂に登って、はるかに両親の墓を拝み、いかに山奥であろうと、「人が貴(とうと)いからこそ所が貴いのだ」という誇りが身延山の生活でもありました。

身延山は、お釈迦さまが法華経をお説きになった霊鷲山(りょうじゅせん)よりもすばらしく、吹く風や草木もお題目を唱えている、と感激された身延での生活は、早くもあしかけ九年をむかえていました。

その間、蒙古来襲による博多の惨状を聞いては心を痛め、師匠道善房の訃報に接して涙ながらに「報恩抄」二巻を書いて、弟子日向(にこう)上人に千葉まで持たせたこと、七面天女が龍となって法門を聞きに来たこと、善智法印が毒まんじゅうを持って聖人を殺そうとしたこと、などなど、夢のように過ぎていったのです。
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